守護霊(祖父の記憶)
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更新日:1 日前

昭和二年に生まれた亡き祖父は、群馬県の山あいにある小さな木工所の社長だった。
太平洋戦争の最中に貧しい片親で育ち、早くから自立を求められたため、手先の器用さを買われた少年期から軍事工場の工員として出入りしていたらしい。そして終戦後、工芸品を作る木工職人として修行し、宿場町の面影を残す群馬県の田舎町で起業した。
齢七十六で咽頭癌に倒れるまで、その人生の殆どを職人の世界で生きた男だった。
そんな祖父の人柄は「写真」によく映っていた。
ヤンキー座りのまま煙草を指に挟み、使い込まれた職人の手拭いを頭に巻いてギロリとカメラを睨みつける。それが「トッポい爺さん」のお決まりのポーズで、今の時代にいたら堅気には見えない風情が祖父にはあった。
しかし、祖父は見た目のまんまのガラの悪い人間ではなかった。まだ幼かった孫である私に会うため上京する時、祖父は必ず仕立てのスーツに中折れ帽を合わせ、すれ違う人が振り向くほどの洗練された姿で現れたからだ。そうした祖父の姿はまるで往年の銀幕俳優のようで、粋な大人の香りが祖父の背中から立ち昇っているように見えていた。私が物心ついたのは昭和から平成へと移り変わる時代で、その当時の東京ですら粋で上品な一部の人だけが嗜むような趣味世界を、群馬県の田舎町に住まう祖父は体現していた。それは祖父なりの背伸びだったのかもしれないし、都会への憧れによる擬態だったのかもしれない。しかし、例えば食事一つとっても私が記憶する祖父は、どう見ても老人なのに休日になると街のパン屋までバゲットを買いに行き、ニンニクをすりおろしてガーリックトーストを作ったりするような人だった。平成初期とは、流行に敏感な若い世代を中心にようやく「ティラミス」や「イタメシ」が日本でブームになり出したような時期で、祖父の娘である私の母ですらガーリックトーストなんておしゃれな食べ物を食卓に出さなかったのだから、祖父はきっと昭和初期からずっとモダンで、トレンドにも敏感な「イケてる男」だったのだろう。
一方で、仕事となれば自分の木工所で家庭用の神棚を作る職人仕事を生業としていたのだから、祖父の日常には自然と和洋折衷の風景が入り乱れていたはずだ。そして、そうした文化的な背景が祖父を特別な人のように見せていたと思う。
いつまでも不良のような態度で、仕事をすればごつい手をした頑固な職人、街を歩けば手練れの俳優のように肩で風を切るように歩く祖父の魅力的な多面性は、幼い私の目にも「ちょっとおっかないけど格好良い爺さん」として焼きついていた。
そんな祖父は平成十三年、私が高校生の時に亡くなった。癌が認められてからの最期は一瞬で過ぎ行き、別れの準備をする暇もなかった。
私が二十代半ばになり、人生の岐路に蹲っていた時、夢枕に一度だけ祖父が現れたことがある。
その夢で再会した祖父は、昭和の乙女たちを魅了した二枚目俳優のような出立ちで、ライトグレーのダブルスーツを着こなし、足元の革靴までグレーに揃え、小粋に白色の中折れ帽まで被っていた。
何よりも驚いたのは、祖父が葬式前に田舎の仏間で会ったご遺体の白髪老人ではなく、木工所に立ち込める瑞々しい生木の匂いを香水のように纏った美形の青年時代の姿をしていたことだ。おそらく昭和なら目立ったであろう祖父の髪は透けるように細く、私にも遺伝した栗色の茶髪をしていて、目鼻立ちのはっきりした顔と八重歯をチラリと覗かせる悪戯っぽい表情は晩年にも残る祖父の輪郭を形づくる印象そのものだった。
荘厳な後光を背負った祖父は、夢の中で立ち竦む私の方へ颯爽と歩み寄ってくると、一際格好良くこう言った。
「よぉ、オマエ。いつだって見てるぞ」
祖父はいつも、愛する孫娘が相手でも幼い子どもに目線を合わせるような素振りはせず、まるで同世代の悪友を相手にするような荒っぽい喋り方をする人だった。私はそうされるたび、粋な大人である祖父と対等な存在として扱われているようで、こそばゆい喜びを感じていた。何より、そんなぶっきらぼうで裏表のない祖父が好きだった。私は夢の中で不意に思い出した懐かしさに、目元がギュッと熱くなったのを覚えている。
そして、生涯手放さなかったセブンスターの煙草を美味そうに深く吸い込むと、夢に煙幕を撒くように細く長く吐き出し、片眉を釣り上げ、口角を「ニヤリ」と上げたキザな表情で、祖父は私にこう言って笑いかけた。
「だから、しっかりヤレな?」
その瞬間、眩い閃光と共に若かりし祖父の亡霊は掻き消えた。煙草の残り香からは、線香の香りがしていた。
あの夢で祖父が残した細く静かに燻る煙は、今も私の人生にたゆたい続けている。



