母と三つの宝
- 鳥 いまお
- 5月11日
- 読了時間: 13分
更新日:6月16日
私の母は群馬県の昭和レトロな町並みと山々に囲まれた山間にある木工所の娘として産まれた。来年には古希を迎える母の幼少期はと言うと、いつの日かキャンピングカーで愛犬と二人きり冒険の旅に出掛けることを夢見るような少女であったらしい。人と話すよりも動物と過ごす方が安心できた幼少期の母は、心を許せるような友だちも愛犬と愛猫しかおらず、キャンピングカーの冒険は母にとって本当に大切な夢だったのだろうと想像する。猫は家猫だったので、キャンピングカーを怖がるだろうから愛犬と二人でと考えていたみたいだ。
女学生時代はというと、スティーブ・マックイーンやロバート・レッドフォードなどの洋画スターに憧れた。私の記憶が定かではないのだが、件の愛猫の名前はスティーブだったと言っていたような気がする。とすると、愛犬の名前はロバートだったのだろうか。
また、高校時代は美術部に所属し、大学を目指す際には、田舎町に突然誕生した才女ということで親族を驚かせながら、先に東京で大学進学していた姉を頼って上京した。
たとえ現代においても、母の最終学歴はかなり立派だと言えるし、国内においては未だに全国に名を馳せる名門大学なのだから、立派なステイタスである。しかし、箱根駅伝のシーズン以外で母が母校について語るのを見たことはなく、母校の先輩であった父も同様である。世を見ると、高学歴を自身のパーソナリティの一つとして語る人々はとても多く、その周囲の者ですら、本人ではないにも関わらず誇らしげに他人の学歴を話すものだが、私の両親はそう言った意味で、とても品格のある人たちだったと思う。
大学進学を考える頃には学びの選考をしなければならないが、母は木工所育ちということもあり、一時は建築士になることを夢想したらしい。しかし、昭和という時代に女性の建築士はかなり稀有な就職ルートだった為、母は建築士を目指すことすら始めから諦めたのだと言う。そのため、結局は大学で教育学部に入学し中学校の教育実習生なども経験したが、最終的には教員になることも選ばず、大学卒業後に家庭用ゲーム機器や電子機器の製造販売を行う企業に就職したと聞いている。
就職して数年後には私の姉を授かり、二十五歳から三十五歳頃までの子育て期には専業主婦として奮闘し、姉と私の二女を育て、私が小学校の高学年になった頃に再び社会人として復帰した。
そして、一度か二度の転職をした後、最終的には定年まで国の省庁に併設する企業の事業部で事務員を勤め上げることになった。
当時は昭和という風潮もあり、専門分野を女性が突き詰める道筋は見えづらかったのだろう、母も大多数の女学生たちと同じように士業を夢見ることすらできなかった。また、たとえ国内選りすぐりの大学で高い教養を修めたとしても、それをキャリアに活かす前例は少なく、大学進学・就職・結婚・専業主婦というルートを選ぶことは至極スタンダードなことでもあったのだろう。適齢期には結婚し、家庭を守ることを暗黙の了解で求められていた最後の世代を生きたのが、母たちだと思う。また、実に厄介なことに、母たちは単に晩年まで専業主婦を務めあげれば良かっただけなく、四十代前後で再び社会復帰するという『日本におけるワーキングマザー』の主流を築いた世代でもあるだろう。
家事や育児の責任は専業主婦ばりに担ったまま、社会人としての責任も求められる、というワーキングマザーの姿は、現代で働く女性たちの場合、社会的にある種の及第点にされてしまっているかもしれない。これは及第点などではなく、多くの賛辞を得て良いはずの『特殊技能』と言えるレベルの勲章であるはずなのに、だ。
母たちの世代は、青年期から成人期への階段を登る過程で、急激な社会変化に直撃した世代だった。社会人経験を経て専業主婦となり、再び社会復帰する激動を歩まなくてはならなかったからだ。
それは例えば、70〜80年代に生まれた私たちの世代が経験したデジタル化の波に似ているかもしれない。業務用コンピューターが家庭用コンピューターとなり、インターネット黎明期にWindowsやMac OSと出会い、ポケベルからPHS、ガラパゴス携帯電話からスマートフォン、タブレットやスマートウォッチの登場という急激な変化のグラデーションは、私たちの幼少期から青年期にかけての数十年以内に起きた。
激動の時代を生きる当事者は、いつの時代も目の前の変化に精一杯対応するばかりだろうが、振り返ってみると、たった数十年で起きた急激な変化が、生活様式や社会通念まで大幅に書き換えている恐ろしさは、確かにある。
つまるところ、母たちは、『母親』を求められながら『働く女性』としての立場を求められる激しい変化の、トップランナー世代だったと言えよう。
こうした昭和の時代背景もあり、私が社会人になってからいくばくもしない頃、母という人の生き様を見つめて思うことがあった。それは、古き良き日本の母親らしい姿にある真面目さや、勤勉さ、淡々と日々を過ごしていく慎ましやかな姿にしか立ち現れない静かな美徳だ。
一方で、時代の流れに押し付けられた人生観の元で生きてきたという哀しみも、どこか感じていた。
キャンピングカーに建築士、母が蓋をしてきた純粋な冒険心は、今の時代であれば、きっと本物の冒険に繰り出す機会となったはずだろう。しかし母はそれを選べなかったし選ばなかった。
そう思うと、無性にやるせない気持ちにさせられるのだった。
とはいえ、そんな昭和を几帳面に生きてきた世代だからこそ、私が母から学べたことはたくさんあった。
例えば、母は物を長く使い、壊れたら直してまた使うような、清く正しい精神が骨の髄まで通っている。
また、私が生まれてから四十年余り、おそらくそのずっと昔から、母は起床し朝食を作り支度し働いて買い物して帰宅し夕食を作り食器を洗って洗濯物を畳んでから家計簿を手書きし手早く入浴して家族の世話を焼いてから就寝する、というワーキングマザーの規則正しい生活ルーティンを送ってきた。
そうした環境の中で、文句も言わずに淡々と過ごしてきたように母の姿を語ると、あまりに真面目で律儀で実直で寡黙な人のように聞こえるかもしれないが、母の人柄は、もっと生身の人間らしいものだと思う。
母は、戦火で育ち戦後を生き抜いた木工所の職人を親父に持つ田舎娘らしさがあり、案外ど根性タイプで時に短気、おまけに内に秘めた気の強さがある。その負けん気で、上京や進学など、自分の道を切り拓いてきたのだろう。
前述の、淡々とした母の生活様式は、誰かにそうしろと矯正された不自然さはなく、母の負けん気と美学が、母自身をそういう人間に育んだのではないかと私は想像している。
親友と呼べるほど心を許した相手は、生涯で子ども時代の犬と猫だけだったかもしれないと言う母だから、きっと誰に話すでもなく、歯を食いしばって、自分の弱さに負けないように長い年月努力してきたのだと、私は母の背中を見ている。
数年前、私自身も母親となり、自分を育てた母という女性について振り返ることが増えた。
私の同世代の新米ママ仲間とは、母としての自分の反省や戸惑いなどを語らう時間も稀にあるが、互いに実母や義母のことを話す機会などもあり、私も、私の母のことをふと考えたのがちょうど今日だった。
そして、私の頭をよぎるのは、母が私の人生に授けてくれた『三つの宝』のことだった。
母から授かった宝の一つ目は、衣服の趣味だ。
母はパッチワークなどの洋裁を趣味としている人で、私は幼少期から母の手作りのサンドレスなどを着せられて育った。また、母がおしゃれな人だったかと言うと、一般的なお洒落な人とは異なるのだろうが、若かりし頃はトレンチコートはバーバリー、バッグはオールドコーチ、シューズはタルボットで、スカーフはエルメス、化粧気はなく常に小ざっぱりとしているが、なぜか化粧ポーチには真っ赤なシャネルの口紅が一本だけあるといった、パリジェンヌのようなスタイル哲学がある人だった。お洒落に力を注いでいる人、と言うよりは、慎ましやかな暮らしの中で、数十年に一度の記念品を自分自身や夫から授けて、壊れても壊れても磨いて使い続けるようなタイプの人だ。私もこんな母から受け継いだ、“ママヴィンテージ”とも言える本物の品々が幾つか手元にある。
全身ユニクロに身を包み、アウトドアメーカーのポシェット一つで近所を散歩している現在の姿からは想像し難いが、私のファッション感覚の基礎を磨いてくれたのは、やはり母だと思う。
三十代までは価値がわかっていなかったが、トラディショナルだけが表現できる確かな美しさは四十代に入った私のこれからのファッションエイジングの指針であり、母から授かったセンスの使い道だと思っている。
母から授かった宝の二つ目は、映画だ。
洋画スターに憧れていた母の元で育ったので、私の幼少期には洋画体験が自然とあった。90年代の金曜ロードショーは、ほぼ欠かさず見ており、お気に入りのみ厳選して録画を残した100本ほどの家庭用VHSテープは、今は亡き実家の書棚にずらりと並んでいた。
同じようにNHK BSで深夜放送されていた洋画も録画していたので、これも私のコレクションを増やす要因だった。
それこそテープが擦り切れて、画質が荒くなるほど映画を見た幼少の日々だった。
1989年に公開された映画『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』など、字幕版と吹替版を所持していたし、私が敬愛して止まない俳優ハリソン・フォードの声と、インディを長年演じ続けてくださっている俳優の村井國夫さんの声を聴き比べたりしていた。本作に関して言えば、学生時代だけで三十回以上は観ているはずなのに、今でも初見の興奮はまったく色褪せない。
新聞のテレビ欄にマーカーペンを引き、映画放送の予定を見つけるのが、中学時代の私の楽しみの一つであり、映画館に新作映画を観に行くには小遣いが足りない幼い映画ヲタクには、ありがたいテレビ放送だった。
そして、私の隣で母が映画を鑑賞することもしばしばあり、彼女は70年代や80年代の作品に出てくる俳優たちを解説してくれた。
青春時代に母が夢中になっていた碧眼金髪の俳優たちは、私にとっても憧れのレガシーとなった。
ちなみに往年のスターばかりではなく、母は1998年に映画『プライベート・ライアン』を観て以来、寡黙なスナイパーを演じたバリー・ペッパーというカナダ人俳優もお気に入りだ。これは洋画好きなら痺れる、とても渋い”推し”だと思う。
そして、母から授かった宝の最後の一つは、本だと思う。
母はもう何十年も隔週土曜の朝に同じトートバッグを持って近所の図書館に行き、何冊も本を借りてくるような人だ。
それには父も帯同し、母と同じように読書に親しんできているはずだが、父を語るためのアイデンティティが『サッカー・酒・煙草・登山』であるならば、母は『読書・洋画・裁縫・登山』といった感じの違いがある。
夫婦共に長年のルーティンがあり、昭和が育んだ規則正しさを持つとても真面目な人たちという点では類似しているのだが、母にとっての読書とは、紛れもなく彼女のアイデンティティ・コアなのだ。
誰かに話すでもなく、SNSで感想を公開するでもなく、ただ厳かに淡々と、母と本の密接で個人的な関係は続いている。
週に数冊の読書を何十年と続けているような人で、料理本や随筆などもたまに嗜むものの、小説こそが、母の読書体験の根幹だろう。
母は、人間の優しさが垣間見える爽やかな物語を書く作家を好んで読んできていると思う。
母の言葉を借りるならば『ほんわか系』や『じわっとくる系』だ。
私も母の影響で本を読むようになったが、母の趣味とは重ならず、ミステリーやサスペンス、純文学といった小説ジャンルや、哲学書や詩集や随筆などの作品を国内海外問わず好んで読み続けてきた。これは単に、私にとっての物語の原風景に洋画で培ったサスペンスがあったり、哲学で語られるような普遍性を延々と思考することが好きだからかもしれない。
そんな私が、スティーグ・ラーソンの『ドラゴンタトゥーの女』やジェフ・リンジーの『幼き者への挽歌』などを読んでいた当時、母に同書を勧めてみたことがある。しかし、悲惨な描写に母は苦手意識があるようで、日頃からSF・ファンタジー・恋愛・ミステリー・時代小説など広く読んでいるはずなのだが、私のお勧めは難しいようだった。
「だって、現実だって辛く痛ましいのに、小説くらい幸せな話が読みたいじゃない」と、あの時の母は言っていた。
母は原田マハさんの『たゆたえども沈まず』や、宮部みゆきさんの『小倉写眞館』、浅田次郎さんの『霞町物語』や『五郎治殿御始末』などが好みだと記憶しているが、近年では好みが更新されているのだろうか。または、私が実家を出てから、どれほどの名著と出逢っているのだろうか。
それが気になって、今朝、久々に母に連絡してみたら、三時間後に珍しく母から長文の返信が来た。
小野寺史宣
ひと、まち、いえ、ライフ
伊吹有喜
ミッドナイトバス
雲を紡ぐ
今はちょっとついてないだけ
なでしこ物語
カンパニー
宮本輝
彗星物語
田園発楽園行き
重松清
ビタミンF
定年ゴジラ
半パンデイズ
宮下奈都
羊と鋼の森
山本甲士
迷犬マジック
小路幸也
東京バンドワゴン(シリーズ)
東野圭吾
麒麟の翼
新参者
祈りの幕が降りる時
宮部みゆき
名もなき毒(杉村三郎シリーズ第二作)
雫井脩介
犯人に告ぐ
デボラ・クロンビー
警視キンケイド(シリーズ)
ジェフリー・アーチャー
ゴッホは欺く
昭和三十一年に生まれた母は、何年経ってもスマートフォンの取り扱いに慣れず、キーボードのフリック入力ができたとは思えない。おそらくは、辿々しい手つきと老眼を酷使しながら、人差し指で書きつ戻りつしながらポチポチ書いたのだろう。そんな母から届いた返信は、まるでショートメールの限界に挑んでいるような長文だった。私は思わず破顔してしまった。
また、お勧めの作品群を紹介する冒頭文には、こうも書かれていた。
「読書の時間は大切だと思います。例え、私のように眠りにつく前のささやかな儀式のような読書だとしても…。ともかく、本のお勧めは沢山ありすぎる」
この一文と共に、母は私が好む海外ミステリーも、忘れずに末尾に入れてくれていた。
ジェフリー・アーチャーは、学生時代に母から紹介され、よく読んでいた海外ミステリーの作家で、私も『百万ドルをとり返せ!』『大統領に知らせますか?』『めざせダウニング街10番地』『ロシア皇帝の密約』『盗まれた独立宣言』などを夢中で読んだ記憶が一挙に蘇ってきた。忘れずに私の好みの海外ミステリーを勧めてくる様子が、とても母親らしいとも感じた。そして、母はやっぱり本の虫だとも思った。
今日はタイムリーにも母の日だったのだが、私は夕暮れ時に夫と娘から花をもらうまで、そんなことを忘れていた。だから、ひょんなことからショートメールを半日送り合った母にも、まだ『母の日の感謝』を伝えられていない。母はメールをしながら私にそれを言い出せず、悲しんだだろうか。
けれど、私には、母の日に贈ろうと用意していたものが二つあることを母は知らない。
それは、以前から母なりに探し求めていた『オールドコーチのターンロック式ショルダーバッグ』と、絶版になっていた新潮文庫の『フェビアの初恋(1968年)ブローティ著|村岡花子訳』だ。
オールドコーチは、アウトドアブランドのポシェットでは困るシチュエーションのために、母が必要としているもので、目の覚めるような赤色をしている。
フェビアの初恋は、母が高校時代に胸を高鳴らせながら夢中で読んだ恋愛小説だったらしい。
私は赤色のオールドコーチを花束に見立てて、バッグの中に思い出の文学を詰め込み、母の日を祝おうと思う。