水と油のふたり
- 2025年7月11日
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更新日:6月3日

穏やかで優しく、世の中の哀しいことに人知れず心を痛めているような彼とは妙に相性が良い。
うまく言えないけれど、最初に出逢った頃から「生まれた時に欠けてしまっていた自分の片割れを見つけた」みたいな気がしていた。それは、ずっと探していた「生きるためのバランス」がとれたような感覚と言えるほど、私が普通に生きていくための安定に深い関わりがある人物だったということなのだろう。
私たちは似ているわけではなく、むしろ水と油のような対称性がある。
私が悲喜交々をテーマとした感傷に耽って彼に語りかけると、統計や傾向といった数字をこざっぱりと持ち出して、私の感傷をいとも簡単に別の生き物にしてしまうような感じだ。
例えば、私は直視したくない何かを恐れて白いレースのヴェール越しにこの世を見ているのだろうが、彼も同じ様に傷つくのを恐れながらこんな事を言うだろう。
「日差しも花粉も雨も遮る事ができるからフルフェイスヘルメット被っちゃおう、ねえ見て、これ結構おしゃれだよ」
私が左脳で建設的に理解して、右脳で滔々と語るのに対し、彼は右脳で感覚的に読み解いて、左脳で理路整然と語る事ができる。こういう違いが私には心地良く、自己沈潜ストッパーのようであり、ある種の処方箋でもある。
私のような「いつも思考していて、ちょっと気難しくて、なんだかんだ他者に面倒をかけながら生きながらえてきた人間」にとって、あらゆることを話し合いながら生活を共にしていく夫婦関係はかなり難易度の高いやりとりだと思うが、互いに相容れなくなって共倒れみたいな状態は出逢って十年経っても皆無だし、もしかしたら水と油の関係は夫婦においては好愛称の一つなのかもしれない。
彼と暮らし始めた十年前、きっと私は初めて「自分らしい平穏」という事を知った。
私たちに共通するのは、「友人は少なくて良く、優しくて平和な人々と肩を寄せ合って、信頼感の中で本音を語り合う自由を求めている」という交友感覚と、「衣食住において統一されたインテリアや、自分たちで苗木から育ててきた植物に囲まれた空間や、ほんの少ししか持っていないなりに思い入れのある作家の食器を大切に使いたい」みたいな様式感覚だろう。
一方で、趣味は違うし、互いに興味のある分野も異なる。そして、それを分かち合おうとする事もあまりない。互いの世界を尊重しているし、互いの世界を無理に理解しようともしていないため、ある種の傍観すらしている。でも、そこにあるのは冷めた無関心でもない。
私にも人並みにロマンスへの憧れはあるが、この際、正直に言うと、私たちは向かい合って座り、見つめ合って語り合う恋人同士のような関係性ではなく、2シーターのソファに肩を寄せ合って腰掛け、互いに別の漫画に没頭している十代の兄妹のようなものかもしれない。
相手が悩んでいたら、寄り添おうとはするが、共鳴する事はあまりないので、精神的に安全でもある。
だから彼は夫であると同時に、私のソウルメイトなのだと思っている。
出逢って今年で十年。
彼との出逢いが私の人生を美しくしてくれたきっかけであり、私たちの元に生まれてきてくれた美しい娘との出逢いにも繋がっている。そしてその娘が、私たち夫婦に子育て人生の喜びを授けてくれた。
そして母となって六年目の今年、初めて娘と夫が母の日の花束を買ってきてくれた。
これまでの五年間で、恩着せがましく「ちょっと、私に労いの花束はないのかい」とせがんだ事もあるが、「だって君はボクのおかあさんじゃないでしょ」と一蹴されてきた。
そして、そんな彼の隣で、まだ赤ちゃんの面影を残す幼かった娘が、キョトンとした顔で私たちをみつめていたし、私はと言うと、ぐうの音も出ずに彼の言葉に笑ってしまっていた。
そんな数年間が繰り返されていた。
けれど、今年は娘がすっかりお姉さんらしくなったようで、父と娘の二人きりで出掛けた外出の帰り道に「母の日」の話題を出したようで、私のために二人で花を買い求めてくれた。
それは私が好む素朴な花で、桃色のかすみ草だった。白ではないところが、母の日デビューの演出だったかなと、事実に蜂蜜をかけておこう。
桃色のかすみ草|花言葉
幸福
感謝
無邪気
清らかな心
切なる願い
私はようやく母として認められ出したばかりかもしれないが、いつだって彼らの存在が私を幸福で満たしてくれる。彼らがくれる「私は愛されている」と言う実感が、今日よりも明日もっと優しい人間であろうとする意志を私にくれる。
Kと出逢い、妻となり、娘と出逢い、私は母になれた。彼らが私の未来をいつも楽しい期待でいっぱいにしてくれる。
母の日は家族から感謝される日でもあると同時に、家族へ感謝する日でもあるのかもしれない。


