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青白い残響(James Blake)

  • 2021年3月11日
  • 読了時間: 5分
青白い残響

 日記を捲りながら当時を振り返っていたからだろうか。今週は2011年のことを思い出してばかりいる。日本が悲しみに暮れていたあの年、僕は一年を通してJames Blakeの音楽をよく聴いていた。


 その年の秋に初来日した際は、東京のチケットがすぐに完売したことで名古屋のライブ会場まで遠征した。仕事終わり、そのまま名古屋に向い、帰りは夜行バス。ライブ会場で体験した重い低音の残響と彼の透き通るような声がまだ耳の奥に残る明け方、新宿駅のバスターミナルからまた仕事に向かったのは、当時二十代だからできた冒険の一つで、今となっては大切な青春の思い出だと思う。

 2011年の僕を振り返るのに、James Blakeの音楽は不可欠で、それほどまでに当時の僕は彼の音楽を必要としていたのだろう。


 2011年3月11日以降、日本で暮らしていた全ての人が毎日のように地震についての話をしていたのではないだろうか。余震の不安や計画停電の話、インフラ復旧の見通しや従事者の方々について、誰かと話せば常にそんな会話をしていた気がする。僕達が決して推し量ることのできない無念を抱えた遺族の方々や、被災地生活をされている方々の映像が、僕達に繰り返し地震の話をさせていた。僕自身も、死者を弔い続けた春だったような気がする。


 震災が起きた2ヶ月後、僕は会社を辞めた。梅雨が来る少し前だったと思う。

 当時、僕が勤めていたのは、東京都・品川区にあるドキュメンタリー作品専門の映像制作会社だった。テレビの報道番組出身の社長と数名のディレクターで運営されている会社で、小さいけれどジャーナリズムに対してはとても意欲的な職場だったと思う。もともと映画志望の学生だった僕は、映像専門学校を出た後すぐに日本映画業界に入るツテがなく、仕方なしにアルバイトをしながら自主映画を制作したりニューヨークに短期留学したりと、映画業界に入る方法を模索しながらプラプラとした日々を過ごしていた。いい加減まともに働こうと決めてからは、具体的な映像技術を磨こうと真面目に考え、たまたま見つけたそのドキュメンタリー制作会社で働きはじめたのだ。

 おそらく二年ほどは、企業が顧客販促やブランディングのために制作するビデオパッケージなどの駆け出しディレクターをしながら、自由が丘にある居候先と目黒にある会社を往復する毎日だったと思う。


 日頃から若いドキュメンタリストや、アルバイト希望のジャーナリストの卵のような映像学生たちが出入りするような活気のある職場だったこともあり、震災直後は地震にまつわる話をする人が会社を訪れることが増えていた気がする。震災の記録を撮るために現地入りする計画の話や、ドキュメンタリストとしての使命感に燃える話などを日常的に聞いていた僕は、なぜかどんどん憔悴していった。

 彼らに非はなく、単に僕自身が軽いノイローゼになってしまっていたのだろう。もともとドキュメンタリストとしての使命感など、持っていなかった腰掛けアルバイトディレクターの僕は、「被災国の当事者として考え行動したい、僕らにも何かできるはずだ」という彼らの熱意や行動力に、かなり引け目を感じていたのを覚えている。そして、毎週月曜日が来るたびに出社するのが徐々に苦痛になっていった。そして、2011年の夏の終わりに仕事を辞めた。それからの二ヶ月間の記憶は、ほとんど残ってない。



 あの当時、できるなら、僕も続いていく日常をちゃんと暮らしていきたかったと今でも思う。職場は好きだったし、労働に対する対価を得られる環境で映像の仕事をするやりがいも感じていた。

 初めてMac Book Proを買ったのもあの職場で働きはじめてからだった。撮影現場で「ディレクターさん」と呼ばれるこそばゆい気持ちや、初めて手にした自分の名前が印刷された名刺も忘れられない。

 単に僕の心が「体力不足」だったのだろうと思う。あの年の夏は、休みをもらってどこにも出かけず、居候先の自室の六畳間に引き籠もり、「明日になったら、仕事を辞めたいと言いに行かなくちゃ」、「いや、やっぱり今辞めるのはだめかもしれない」、「迷惑をかけるかな」、「いったいなんて言えばいいんだろう」、「僕は被災地を取材するのが辛すぎて辞めますって、言ってもいいことなのかな」、と何週間も週末が来るたびに自室の天井を見つめながら延々考え続けていた気がする。

 思考の泥にはまってしまったように自己沈潜してしまった結果、身体が拒否反応を起こしたんだ。

 もう、地震の話は聞きたくなかった。僕は被災地への取材に行きたくなかったんだ。


 その当時の日記には何も書かれていなかった。

 学生の頃からずっと日記を習慣にしていたはずなのに。

 しかし、あの空白の二ヶ月間に聴いていたJames Blakeの音楽だけは覚えている。

 耳の奥に、いまだ残響が聴こえるのだ。


 彼の最初のアルバムであった「James Blake」は、不思議と目を惹きつける青いジャケット写真が有名だろう。デビュー当時ほとんどプロフィールが明かされていなかったイギリス人青年を怪しく覆い隠す、非現実的なアーティストイメージは、James Blakeの音楽をこれ以上ないほどに表現していたと思う。

 彼の音楽はまるで、この世にたゆたう魂が礼拝堂に集い、歌う、讃美歌のようというか。魂という「実態のない存在」による存在証明のような歌唱というか。どこか神秘的な生命力を秘めているのだ。綺麗なものや、心地良いものについてのイメージも想起させる。それから安心感や、忘れたはずだった愛おしい記憶、誰もがもつ生きながらの孤独感なども。


「そうか、僕は癒されたかったのだな」


 今更ながら、そう思った。

 あの当時、毎晩眠りにつく際に思い出してしまう脳裏に焼きついた映像があった。海沿いの街に迫り来る巨大な津波の映像や、人々の姿、遺族の背中や親の不在が理解できない様子のまだ幼い子どもたちの映像だ。

 あの頃は、他の多くの哀しみを背負った人たちと同じように、僕も息苦しさを感じていて、毎晩自分の呼吸をするのが難しく、不安に押しつぶされそうだった。

 そんな夜に聴いていたJames Blakeの音楽と彼の声は、立ちくらみような/浮遊感のような/淡く/優しい/癒しの光のようだった。


 日本が哀しみに暮れていたあの年、2011年。僕は一年を通してJames Blakeの音楽を繰り返し聴いていた。

 今も思い出すと、耳の奥にあの時の青白い残響が聴こえる。


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