書くための素描(モネとブーダン)
- 5月28日
- 読了時間: 24分
更新日:6月5日

はじめに
幼少期、1994年に東京・京橋にあったブリヂストン美術館(現:アーティゾン美術館)で開催された「MONET モネ展」に、絵画に熱心な母親に連れられて行った記憶がある。
当時十歳だった私は、「睡蓮」をはじめとするモネの連作を見た時に「チラシで見て想像していたよりも薄暗い雰囲気の絵なんだな」という感想を持った。幼い頃の芸術鑑賞とは情報が少ない分だけ直感的だから、固定観念を取り除いた状態で目の前の色や形だけをイメージとして見ていたのかもしれない。
続いて、2007年に東京・六本木にある国立新美術館の開館記念として行われた超大型回顧展「大回顧展 モネ 印象派の巨匠、その遺産」を鑑賞した。
当時の私は二十三歳で、若気の至りと言い訳できるか怪しいほど頭でっかちな映画学生でもあり、たとえ気の置けない相手であっても誰かと連れ立って絵画鑑賞に行くことは選ばず、敢えて一人で見に行って「芸術とは?」を享受し思考したがるような若者だった。今思えば痛々しくもあるが、その時の自分なりに、絵画の前で何かを考えようとしていたのかもしれない。
そして三回目、2013年に東京・上野にある国立西洋美術館にて「モネ、風景をみる眼 —19世紀フランス風景画の革新」を鑑賞した。
この時は、展覧会の素晴らしさそのものの印象は多少覚えている。しかし、二十九歳当時の私は人生の浮き沈みの只中にいて、心に余白をつくれず「モネの絵」のディテールやそこで感じたことの記憶は、ほとんど残っていない。
そして今年、東京の京橋にあるアーティゾン美術館にて「モネ没後100年 クロード・モネ ― 風景への問いかけ」を鑑賞した。
1|クロード・モネ展
もしかしたら、私はこれまでモネの絵をそこまで好んでいなかったのかもしれない。
ちょっと嫌らしい言い方をすると「日本でこんなにモネが人気なのはなぜなのか?」をあまり理解できないまま、話題性のままに鑑賞して来てしまったのだと思う。
今となっては、モネの絵画が日本人の自然観や伝統的な美意識と親和性が高い理由も理解できるし、モネ自身が日本の浮世絵などの文化から多大な影響を受けた経緯を知れば日本における展覧会が常に盛況なことも頷ける。
だから私が行った過去の展覧会は、いずれも素晴らしい企画展だったはずだ。なのに、そこから持ち帰るものがなかったと感じていたなら、それは単に鑑賞者側である私の問題だったのだと思う。なぜなら、美術館という場所は、いつ訪れても心の滋養や創作の着想を必ず得られるわけではなく、どちらかというと、企画との相性と自分のコンディション次第だからだ。つまり、これまでの私はモネを鑑賞する準備ができていなかったのかもしれない。
そんな経緯があったので、今回のアーティゾン美術館も、実はぼんやりとした鑑賞から始まった。
「モネ展あるある」ですらある鑑賞者行列の最後尾に自分も混ざり、一列に行儀良く連なりながら、同じ秒数間隔で絵画から絵画へと横移動していった。だから、冒頭の展示室では、自分の興味関心のペースで鑑賞できたとは言えないだろう。
しかし、徐々に私の集中度は増していくことになった。
|探求の旅人
今回のアーティゾン美術館での「モネ没後100年 クロード・モネ ― 風景への問いかけ」が、クロード・モネの画業史を時代背景やモチーフの変遷とともに丁寧に解説してくれた点が、本展覧会を印象深いものにした一番の理由だったと思う。

一人の画家が生涯をかけて何を見つめ、何を描こうとしてきたのかをあらゆる文脈から立ち表せ、「風景への問いかけ」という企画主題に集約させながら、新時代の風景画を探求した画家の人生を見せてくれていたのだ。
若き日の風景画との出会い、写真や浮世絵からの影響、雪景や都市風景への関心、連作という方法、そして晩年のジヴェルニーの庭と「睡蓮」へ至るまで、モネが何を見つめ、何を描こうとしてきたのかが、ひと続きの旅のように見えてくる展示だった。
その流れを追っているうちに、私はようやく、モネを「睡蓮の画家」としてではなく、ひとつの主題を長い時間をかけて探究し続けた画家として見ることができたようで、この点が今回の鑑賞体験の充実度の根幹だったと思う。
アーティゾン美術館の建築物としての造形美も相まって、展示室や階を移動しながら鑑賞者の集中を途切れさせない空間のつながりは、モネの画業人生の流れにある「移動」や「滞在」にも合い、一人の画家の「人生を通じた終わらない探求の旅」を一緒に巡っていくような時間と思考の流れを鑑賞者として感じることができた。
また、自然をモチーフとした絵画制作が有名なので、常に風景の中に身を置き自由と孤独を愛する身軽な放浪者のような画家像と錯覚していたが、モネの実像はもっと複雑だった。今回の展覧会を通じて、モネが自身の主題の探究のために技術や教養においてもあらゆる入出力を繰り返す「熱心な探究者」だったことを知ったのだが、それを補完してくれたのが、同時代の画家の絵画や浮世絵などの日本文化の展示だったのだ。
これまでの「ぼんやり鑑賞」でやってしまったように、フラットな視点でモネの絵画単体を鑑賞しただけでは理解できなかったのだが、モネの絵画はタッチや構成一つとっても、対象観察/再現/構図分解/視点改良などの試みをキャンバスの枠内とそこに広がる空間的な奥行きの間で実験を繰り返しながら生み出されていた。
モネの画業の価値に明るくない私のようなビギナー鑑賞者であっても、当時の西洋絵画の時代背景を学びながら「印象派」の革新性を理解できたのだから、アーティゾン美術館「モネ展」は本当に秀逸な回顧展だったのだと思う。
また、今回、日本初公開だった「昼食」(1873年頃|オルセー美術館蔵)では、食後の片づけられていないテーブル、木に掛けられた帽子、ベンチに置かれたバッグや日傘、木陰で木片で遊ぶ幼い子ども(モネの長男、ジャン・モネ)の姿などが描かれており、画家個人としての日常/暮らしと営み/家族との時間を垣間見ることもできて、画家の人間的な輪郭にも興味を持つきっかけになった気がする。
|オートクローム
今回の企画展では、有名な「戸外の人物習作(右向き)」(1886年|オルセー美術館蔵)や「睡蓮の池」(1907年|石橋財団アーティゾン美術館蔵)なども展示されていたが、私が最も注目したのは、実は絵画以外の展示物で、それが今回の企画で日本初公開されていた「オートクロームの複製」だった。
オートクロームとは1907年にフランスのリュミエール兄弟が実用化した、世界で初めて商業的に成功した手のひらサイズほどのカラー写真技術のことで、絵画のように柔らかくノスタルジックな色彩をしていて、どこかポラロイドカメラの質感にも似ている。
展覧会ではモネの友人(エティエンヌ・クレメンテル|政治家)が個人撮影したオートクロームや、作者不詳のオートクロームの複製版が複数枚プリント展示されており、そこには晩年のモネが暮らした1920年頃のフランス・パリ郊外のジヴェルニー村の豊かな自然が色鮮やかに記録されていた。
私が特に気に入ったのが「ジヴェルニーの自邸の前のクロード・モネ」(1921年|オルセー美術館蔵)というオートクロームだ。

何が印象深かったのかというと、「モネが愛した庭が、とても美しかった」ということを、初めて現実的なものとして知り、惹きつけられたからだと思う。

正直に打ち明けると、過去三回/各美術館でのモネ展では、モネの絵画ばかり注目して鑑賞してきたので、モネの絵画を取り巻く彼自身の実人生や、彼が愛した暮らしなど、絵画にまつわる文脈を深く知ろうとしてこなかった。まだ幼い鑑賞者だった時期は仕方ないかもしれないが、成人してから行った二つのモネ展でも、解説文の前で足を止めても斜め読みのようにしてきたから、モネの画業と暮らしぶりをよく知るまでには至らず、興味が続かなかったのだ。
だからこそ、アーティゾン美術館での「オートクロームの展示」は、私に転機を与えてくれた。
絵画が展示された空間はいつまで経っても人だかりが絶えなかったが、展覧会の終盤を担うオートクロームの展示室はやや落ち着いた雰囲気で、足を踏み入れる前から、なんとなく「感性が動き出す予感」みたいなものも感じていたような気もする。
空間の壁面には、白いカウンターテーブルのようなショーケースがあり、大小様々なオートクローム写真の複製が等間隔に展示されていた。そして、私はその小さな写真をジッと見つめながら、妙な感覚に襲われていた。
その感覚とは、デジタルカードゲームの「イマーシブカード」に吸い込まれる視聴体験に似ていて、視界の枠線が消え去り、小さな写真の奥深くにある時空へと自分の意識が入り込んでいくような不思議な感覚だった。それは脳内で再生される空想に依存した白昼夢のような内的体験であり、オートクロームの複製がデバイスとなって生み出した拡張現実のようでもあった。

私があの時体験したもの、それは、1921年フランス/ジヴェルニー村の昼下がり/柔らかな光と庭の草木の香り/うっすらと汗をかいた恰幅の良いモネ/画家が佇む美しい庭/静かな空気感/モネが燻らせるタバコの煙/テラス席に置かれた冷えたアイスティー/遠くに聴こえる鳥の囀り/茂みに潜む虫やカエルの鳴き声。
写真に映っているものも/写真に写っていないものも、一瞬にして私の眼前に立ち現れたような気がした。
そんな心地良い没入感の中で「モネは過去に実在した絵描きだった」と改めて確認した気分になり「こういう風景の中で晩年を過ごしながら、おじいさんになったモネは睡蓮の池の絵を描いていたのか」と実感することができた。
そのような鑑賞体験は初めてだった。
|家族の風景
今年アーティゾン美術館の「モネ展」にて、モネの人生年表を読んだ時、モネと最初の妻カミーユの間に生まれた長男ジャン・モネは四十六歳の若さでこの世を去ったと知った。その時、父親であるモネは七十三歳だったという。
だからこそ、「年老いた自分よりも早く亡くなった息子を想い/見えにくくなった眼に苦しみながら、美しい光溢れるジヴェルニーの庭で絵を描く日々はどれほど表現し難い時間だったのだろうか」と想像した。また、だから私は晩年の「睡蓮」の連作を見るたびに、その美しさよりも/主題の揺るぎなさよりも、モネの晩年を包む哀しくて薄暗い孤独な印象を感じてきたのだと気がついた。
そして同時に、愛情に溢れた父親の眼差しが満ち溢れた、あるモネの絵画作品を思い出してもいた。
今回の展覧会では公開されていなかったが、私は「揺りかごの中のジャン・モネ」(1867年|ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)というモネの家族を描いた絵画がとても好きだった。たしか、2007年に国立新美術館で開催された「大回顧展 モネ 印象派の巨匠、その遺産」でこの絵画を初めて見たのだと思う。
その当時の私はまだ二十歳そこそこで、赤ちゃんにまつわる絵画を見ても正直「赤ちゃん、すごく可愛らしいなあ」くらいの感想だったはずだ。しかし、それからおよそ二十年が経ち、私自身も親となった今では、その一枚の絵画に想いを馳せる部分がある。
|なぜ描くのか
中流階級の家庭に生まれ、おそらく幼少期にはある程度恵まれた暮らしをしていたモネにとって、自分の絵画が世に受け入れられず、生活に苦しむ時代は相当辛いものだったのではないだろうか。なぜなら、父親との確執があり、妻と子どもがいながらも離れて暮らさざるを得なかった時期があり、絵を描いても、それがすぐに仕事として成立するわけではなかったとされているから。
三十代半ばで「印象派」の画家と呼ばれるようになってからも、経済的に安定したのは四十代頃からだったという。現代社会の芸術家と比べると、19世紀の画家は経済的安定へのハードルが非常に高く成功時の年齢も遅かったようだから、現代の芸術家(広義でクリエイターとも考えると)がテクノロジーや市場の多様化によって若年層のうちから多様な方法で経済的自立を達成できる環境にあることと比べると、モネは苦労人だろう。
画家の観察力と創造性、そして風景の再構築によって成り立つ印象派の絵画は、自然界の光や風を動的なまま画面に留めようとしており、当時としてはまったく新しい着眼点だったのだろうけれど、それは同時に、「まだ誰にも理解されきっていない絵」を描き続けることでもあったはずだ。
そうした若い画家の暮らしを想像した時、私はそこに、少しだけ自分自身のこれまでの文筆の時間を重ねて辛くなってしまう。「売れるかどうかも、認められるかどうかも分からない。けれど、なぜかやめることができない。ずっとそれをしてしまう」その創作執着の感覚が痛いほどわかるからだ。
生活の不安や、家族への負い目、周囲の同世代とのキャリア格差や、自分が何者なのか分からない感覚を抱えたままそれでも何かをつくろうとしてしまう衝動を、過去の偉人の無名時代にも透かし見てしまうのだと思う。モネに限らず、写実主義やバルビゾン派から印象派へと広がっていく美術史の起点をなぞるたびに、私はそれを遠い十九世紀の画家たちの話としてだけでは受け取れないし、むしろ、今もなお、この指先から何かを書こうとする無名の人間(私自身)のそばにも、静かに寄り添っている話のように感じている。なぜなら私は今、学童期の子を育てる親となり、もっと稼がなければならないはずなのに日々の仕事は少しだけ他人事みたいに上の空で、夜な夜な姿を現わす「書かずにはいられない自分」という本性に、人知れず苦しんでいるからだ。そして同時に、今この瞬間もこの文章を書いているという、その「書く喜び」そのものに、泣き出しそうにもなっている。
私は、書いていられさえすれば幸せである自分が狂おしいほど憎く、同時に少しだけ愛しいのかもしれない。いつだって辞めてやりたいと思うのに、辞めることも止めることも堪えきれず、結局書いていて、そんな時間がもう無名のまま十五年以上も続いている。
こんな自分にほとほと愛想がつきそうになるが、息を殺して不安を飲み込み、また明日も何かを書くのだと思う。
そしてふと妄想すると、「揺りかごの中のジャン・モネ」にまつわる、歴史に名を残した偉大な画家の人生に見え隠れする「普通の家族の哀しき/愛しき物語」を想起しながら、当時の青年モネに/今の私から、語りかけたくなる。
「ねえクロード。愛らしいジャンの寝かしつけが終わったら、角にあるいつもの酒場で一杯だけ呑まない?」
「いやあ、ボクもそうしたいのは山々なんですけれど…妻ばかりに任せているのも忍びないものですから…」
「もちろん、奥さんのカミーユも連れてきて。揺りかごのジャンは、お隣さんに少しの間だけ見ていてもらいましょう?」
「…ええと、どうしようかな」
「私もなけなしのお金だけど…モネ家の幸せと、貴方の飽くなき創作意欲に乾杯したい気分だから」
「ありがたい申し出ですよ…ご好意に甘えて良いのでしょうか? 妻もきっと喜びます。だって彼女は不幸なのですから…ただでさえ産後の痛む身体と不眠で母乳もろくに出ないだろうに、僕が最近どうにもやり込められて参っているのを知ってきっと哀しんでいるんです…たとえ嘘でも、貴方の乾杯で妻も救われるでしょう」
「ちょっと、ちょっと、嘘とは失礼でしょう。私は本気で讃えたいんだから。まずは今夜、愛し合う二人の未来に乾杯しましょう」
「…ええ」
「…クロード…描き続ける意思だけでお金はもらえなくても、貴方が描けば…きっと何かが変わってゆくから…」
「…ありがとうございます…」
「…うん、忘れないでね」
「…ええ…なんだか…ちょっと…煙草の煙が目に沁みたみたいです…」
「……ええ」
そして、若きモネは気持ちを隠すように咳払いするとこう言った。
「…これは、失敬。失礼でなければ貴方も一本どうでしょう?」
「それじゃあ、一服だけ」
「もちろんです、どうぞマダム…しかし貴方と出逢ってまだ日も浅いですが、とても親切な方ですね…」
「あら、今さら取ってつけたように言わなくたっていいでしょ…シラけるわ…」
「いえいえ、そんな! これは僕の本心です」
「ふふ…ならいいわ。それに、私が住んでいる街に来たら、きっと全ての人が貴方に親切にしてくれるわよ」
「そんな馬鹿な、勘当された売れない絵描きの僕に誰がそんなことをするっていうんです?」
「簡単よ。あなたの手元にある絵をちょっと小脇に抱えて、自己紹介さえすればいいのよ」
「…はあ。僕が世間知らずに見えるからって、揶揄っているんですね?」
「そんなことはないけれど。…うまく言えないし、言ってはいけないし、どちらにせよ言うつもりもないのだけど、貴方はきっとこの先も永遠のような時間のなかで多くの人に愛され続けるような画家になるわ」
「…占い師みたいなことをいうなんて、ちょっと不躾だし不思議ですけど…親切な貴方に敬意を表して覚えておきます」
「ふふ…そうね、まるでどこかにある物語みたいだわね、私が書いたんじゃないけれど」
「…その…マダム…訊いてもいいですか?」
「はいはい、なんでしょう。ところでカミーユを呼んでこなくってもいいの? 乳児が独りで眠っていられるのはほんの束の間なのよ?」
「ええ…今すぐに。でも、貴方がなんだか未来を見透かすような瞳で僕を見るから、知りたいんです」
「……」
「…たとえパンが買えない日があっても、スープ一杯で空腹をしのぐ夜が訪れようとも、生きている限り…貴方も書き続けますよね?」
「………」
「たとえば…書くことがない日は、今夜僕と煙草を吸ったこの瞬間を書けばいいですから。そうやって、心に溜まったことを見逃さないでいれば、ずっと書いていけますから。そうやって生きて、書いていけばいいんですよ、だから…」
「………そうね…」
「僕も…きっとそうしますから……」
そう言うと、モネはカミーユを呼びに部屋へ戻って行った。
私たち三人だけで始まった小さな宴に、その後モネの画家仲間たちもやってきて、その夜は孤独な芸術家たちと、名も無き物書きによる貧しくもあたたかな晩酌となった。
こんな妄想を頼りに、私は束の間の孤独を癒している気がする。
印象派が始まる前の、まだ無名だった多くの画家たちと一緒に、創作の夢と希望、そして未来への不安について話したら今の私の情けなさも少しは解消されるのだろうか。
|描き続けた画家
モネの絵画や自画像だけを見ても、画家本人の実像はよく分からなかったが、今回の「モネ没後100年 クロード・モネ ― 風景への問いかけ」にて、1900年代初頭のフランスでのモネの暮らしを垣間見られたことは、大変深い鑑賞体験となった。
出自/恋/時代/生命の誕生/家族の喪失/老い。
私たちと同じように、モネも自分の人生に翻弄されながらも、長い年月をかけて数百〜数千もの絵画を描き続け、目に映る瞬間を、時間や風景、自然などとして捉え、絵画としてキャンバスに収めようとしてきた。きっとデッサン状態の試作も加えたら、さらに膨大なのだろう。
そんな画家としての生き様に想いを馳せるきっかけとなったので、今回アーティゾン美術館で鑑賞した「モネ展」は印象深いものとなったし、私自身の財産ともなる、とても重要な事実にも気がつくことができた。
それは、「私はまだ、数百〜数千もの物語を書いていない」ということだった。
モネが描き続けた過程には完成作だけではなく、その前に積み重ねられた無数の試みがあった。私がこれからも物語を書き続けるヒントが、この画家の姿に隠されている気がした。
そして、私にそのことをよりはっきりと意識させてくれたのが、モネの師でもあったウジェーヌ・ブーダンだった。
2|ウジェーヌ・ブーダン展
アーティゾン美術館での「モネ展」には、本人以外にも関連画家の作品が複数展示されていたのだが、特に注目した絵画の一つが「トルーヴィル近郊の浜」(1865年頃|石橋財団アーティゾン美術館蔵)という絵画だった。絵画に明るくない私は、今作を描いた画家が、モネより十六歳年上でモネの師匠と呼ばれているウジェーヌ・ブーダンという画家だと知った。
そして、「モネ展」からの流れで、東京・西新宿にあるSOMPO美術館まで「ウジェーヌ・ブーダン展 − 瞬間の美学、光の探求」も見に行くことにした。

|港町の絵描き
船乗りをしていた父と、裕福な家庭のメイドのような仕事をしていた母の元に生まれたブーダンは、フランス・ノルマンディー地方にあるセーヌ川の河口に位置する美しい港町オンフルールで生まれ育ったらしい。
父親が船乗りを辞め、セーヌ川を挟んだ隣町ル・アーヴルで文房具・額縁店を始めると、まだ十代だったブーダンも店を手伝い始め、その店には当時すでに有名だったバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーやジャン=バティスト・カミーユ・コローらが画材を買いに訪れていたようだ。
こうした日常がきっかけとなり絵を描き始めたブーダンは、アトリエ内で宗教画や歴史画を描くのが主流だった当時(1850年代の初め頃)に、画材を屋外に持ち出したという。特に有名なのは帆船の絵画で、ブーダンは美術界で「空の王者」と呼ばれることもあるほど、海景が有名な画家である。
これがブーダンの画風の起源で、太陽の光の下で描く「外光絵画」を実践した画家として台頭し、この手法そのものが、後の印象派の基本スタイルとなったため、ブーダン自身も「印象派の先駆者」として認知されているようだ。
また、若き日のクロード・モネに屋外で絵を描くことを教えた人物としても知られている。

|素描
私がSOMPO美術館での「ブーダン展」で特に注目したのは、ブーダンの「素描(デッサン)」だった。
対象の本質を捉えて光や空気感の記憶を蓄積するために、わずか数本の線から瞬間の雰囲気を捉えていたブーダンの「観察眼」と、それを再現する確かな技術に驚いたのだ。
ウジェーヌ・ブーダン展では、「ブーダンにとって素描は対象の表面を写し取るばかりではなく、その本質を理解する手段であった」と解説されていた。つまり、彼にとって素描とは、自然の本質を見極め、刻々と変わる空気や光の瞬間を捉えるための「思考の装置」そのものだったのだろう。
ブーダンにとって「素描」とは「本質の探求」であった。樹々や空、帆船や海といった対象を表面的な形としてなぞるだけでなく、その「核心」にある美や構造、つまり「本質」を理解するための手段として素描を行っていたとされている。記憶と感覚をキャンバスの上で絵画として再現するために、目の前の景色から感じ取った「その瞬間の空気」や「光の感触」を呼び戻すための記憶装置として、繰り返しデッサンし、探求したのだろう。
その生涯で残された膨大な素描の存在は、そうしたブーダンの探究心を裏付ける証拠のようにも見えた。ブーダンは、生涯に6,000点以上の素描を残したそうだが、描き溜めた素描の数々は、後から見返すことで新しい絵画を制作するための豊かな着想源にしていたという。
素描をしなさい、素描を。
絵画で重要なのはそれだけだ (ウジェーヌ・ブーダン)
これは、ブーダンが弟子のルイ・ブラカヴァルに宛てた有名な言葉だという。元来控えめな性格だったと記録されているブーダンにとって、これはかなり情熱的な言葉に思えたが、それほどまでに「素描」という試みに集約される観察/探究/着想/技術/明察、その全てが「絵画」の真髄なのだろう。
ブーダンはモネのメンターであったのだろうが、遠く2026年に生きる私たちにも届く真理を探究した、紛れもない芸術家であったことを実感した。なぜなら、前述のブーダンの言葉は、私がこれからも書き続けていく人生において、忘れてはいけない「書くということの原風景」を色濃く支える言葉だったからだ。
展覧会で、ブーダンの素描をジッと見つめながら、私は自分がこれまで書いてきた全ての言葉と文章に費やしていた時間さえも「小説を書くために必要だったのではないか」と感じ始めた。
私がこれまでの人生で幾度となく書いてきた「日記」「作文」「ラブレター」「反省文」「履歴書」「志望動機」「報告書」「事務連絡」「指示書」「質問」「感想」「リアクション」などの文章は、どれも最初から文学になるために書かれたものではない。誰かに謝るため、何かを説明するため、気持ちを伝えるため、仕事を進めるため、あるいは自分の輪郭を保つために書いてきた文章だったはずだ。
語彙の多さや、実務的な技術ばかりではなく、「誰かに何かを伝えるために書いてきた言葉と文章」にも、書くことのエッセンスが詰まっていたのではないだろうか。あらゆる文章行為は、私にとって、「世界を観察し、自分の感情の輪郭を確かめ、言葉に置き換えるための修練」でもあったはずだから。
そして、おそらく、「小説やエッセイの創作」というのは、これまでの生活の中で、ずっと細く続けてきた「書くこと」の修練の延長線上にあるのではないだろうか。
ならば、これまで私が書いた言葉や文章も、全て「小説やエッセイを書くための素描」であったはずだ。
3|最期まで書くために
「クロード・モネ」と「ウジェーヌ・ブーダン」。
この二つの展覧会を続けて鑑賞して、私が強く感じたのは、二人とも死ぬまで「同じ主題」を描き続けた画家だったのではないか、ということだった。
二人の画家は若い頃から描き続け、画風やモチーフを変遷させながら絵画を深めてきたが、その主題とは総じて「瞬間」であり、その細部としての「光」であり、いわば「この世の美しさ」でもあって、「絵画とは何か」という芸術本質でもある。
十五歳から文章を書き始めた私は、紆余曲折、二十五年の歳月を経ながら「とある、きっかけ」によって、ようやく昨年になって「自分も物書きの端くれだ」という自覚を持てた。私にとって書くことが何なのかはまだ定義できないが、「書かざるを得ない人間」であるということは痛切に体感したのだ。
そして気がついた。
「書くためには素描が必要で、その素描は日常における私の言葉と文章行為、その全てだ」と。
私はこれからも「書くための素描」を繰り返すことで、私の「主題」を観察し続ける。
嬉しい時も、哀しい時も、孤独な時も。
きっと死ぬまで、書いてゆく。
4|巻末資料
*以下は、アーティゾン美術館での「モネ没後100年 クロード・モネ ― 風景への問いかけ」という11章に分かれた企画展の構成を振り返りながら、モネの画業史を掻い摘んでおさらいするための資料として、筆者が要約したものです。年表機能はないので、時系列は展示構成に沿って前後しています。なお、実際の企画展で掲載された展示室構成や解説文とは異なる要約見出しをつけています。
「モネ没後100年 クロード・モネ ― 風景への問いかけ」
展覧会11章の構成(筆者要約)*
第1章|1850年代頃のモネ
若きモネ、自然主義的アプローチによる「風景画」との出会い
第2章|1860年代頃のモネ
絵画と写真、「自然活写」が風景画に与えた影響について
第3章|1860年代頃のモネ
雪景を通じたモネの探求、「白」という色をどのように描くか
第4章|1870年代頃のモネ
「都市」にみる近代建築と工業化、印象派による風景画が担う使命とは
第5章|1880年代初期のモネ
都市を離れ移り変わる自然を観察、「連作風景画」の初期実験
第6章|1880年代頃のモネ
国内外での「風景の探索」、自然を描く感性と技術の探求
第7章|1860年代頃からの影響を振り返り
浮世絵が変えたモネの視点、「ジャポニスム」から得た風景画の革新
第8章|1890年代頃のモネ
光で変わるモチーフの表情、「連作」による光景の反復
第9章|1890年代頃の写真芸術の変革
同時代に進んだ写真芸術、ピクトリアリズムが映す内面風景
第10章|1920年代頃のモネ
カラー写真が捉えた晩年のモネ、ジヴェルニーの庭の記憶
第11章|1880年〜1920年代頃のモネと総括的なオマージュ作品展示
妻と息子の死、悲哀の底で見つめた「睡蓮」という永遠
揺れる水面と幻想のあいだ:モネの記憶を形づくる映像オマージュ
モネの実人生で起きていたこと(筆者要約)
1840年代
1840年:11月14日、パリで誕生。
1845年:5歳、一家で港町ル・アーヴルへ移住。
1850年代
1851年:11歳、中学校で風刺似顔絵を描き始め、若くして評判になる。
1856年:16歳、風景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会い、戸外で光を描く素晴らしさを知る。
1859年:19歳、本格的に絵を学ぶためパリへ戻り、アカデミー・スイスに入学。
1860年代
1861年:21歳、兵役のためアルジェリアへ赴任(翌年病気のため帰国)。
1862年:22歳、シャルル・グレールのアトリエでルノワールやシスレーらと出会う。
1865年:25歳、サロンに初入選。後に最初の妻となるカミーユと出会う。
1867年:27歳、長男ジャンが誕生するが、実家からの援助を絶たれ極貧生活を送る。
1870年代
1880年代
1883年:43歳、終の住処となるジヴェルニーへ移住。個展が成功し経済的に安定し始める。
1890年代
1890年:50歳、ジヴェルニーの家を正式に購入。自宅近くの『積みわら』の連作に着手。
1892年:52歳、パトロンを亡くしたアリス・オシュデと再婚。『ルーアン大聖堂』の連作を始める。
1893年:53歳、ジヴェルニーの土地を買い足し、日本風の太鼓橋がかかる「水の庭」を造り始める。
1899年:59歳、自慢の庭で本格的に『睡蓮』の連作を描き始める。
1900年代
1908年:68歳、目の異変(白内障の初期症状)を自覚し始める。
1910年代
1911年:71歳、妻アリスが死去。
1914年:74歳、長男ジャンが死去。深い悲しみから立ち直り、国家プロジェクトとなる大型の『睡蓮』大装飾画の制作に着手。
1920年代
1923年:83歳、白内障の手術を数回受ける。視力は一時回復するが黄視症などに苦しむ。
1926年:86歳、12月5日にジヴェルニーの自宅で死去。
1927年(没後):遺言に基づき、パリのオランジュリー美術館に『睡蓮』の大壁画が設置される。



