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遅い相槌

更新日:2 日前

白い部屋

 先日、友人家族との食事会をした。

 同級生の子を持つ親同士として五年前から面識はあったが、互いに手のかかる年頃の幼い子を抱えていたため、これまでは対話する時間を見つけられていなかった。

 そしていよいよ同い年の我が子たちが乳児から幼児へと成長すると共に親たちにも余裕が芽生え、今年から家族ぐるみでの付き合いが始まっている。

 これから始まる一連の文章の冒頭から結論に達するが、春の陽気に合わせて笑みが溢れるように、私はこの新たな友人関係をこの上なく嬉しく思っている。


 食事会が始まると、話題のきっかけとして、すぐに互いの夫婦の仕事の話をした。あるあるだと思うが、日本社会において子連れ家族が交流するとなると、殆どは子どもの話題が八割で親のパーソナリティーはなかなか話題の蓋が開かない。場所が公園なら子どもが十割だと思う。これは社会人としての配慮であり、親同士としての躊躇であり、日本人的な空気読みかもしれないが、とにかくそうだ。

 けれど、食事会、特にホームパーティーの場合は、公園よりも密閉されたコミュニケーションの場なので、個人的な事を聞いてもお咎めなしな気がする。人に訊ねるよりも、まずは自分を知ってもらう事がマナーかと思い、自分史の目次を話すと、友人夫妻は品良く返事をしてくれたから、私なりのマナーは功を奏したようだった。

 この友人夫妻は、芸術に関わる仕事をしている(夫)またはしていた(妻)という。結局のところ、食事会では、仕事におけるディープな悩みや喜びまではお話しできなかったのだが、「何か」または「過去のどこか」であれば、私とこの聡明な友人夫妻との間に共通言語めいたものがあるのかもしれない、と感じながら話に耳を傾けていた。そして、夫氏の印象的な発言として、「(自分の仕事は)必要とされにくい」というような事を話していたのだが、それについて彼らと別れてからずっと考える事になった。

 私は、芸術というものは、その時代を生きた作家の思想や、とても私的な事や、それを取り巻く時代性を表した「体温のある生々しいもの」だったり、または「無機質なのにこちらに迫り来るもの」や「ただそこにある事の迫力」のようなものかなと思っている。もちろん、言語化できるほどに詳しくはないので、なんとなく芸術とはそんな感じだと思う、くらいがより相応しい表現かもしれない。

 例えば、詩人のポール・ヴァレリーは警句集のなかでこう書いている。


とても偉大な芸術とは、模倣されることが公認され、それに値し、それに耐えられる芸術だ。そして模倣によってこわされることなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものがその芸術によってこわされることも価値が下がることもない。


平凡社|ヴァレリー・セレクション上

「言わないでおいたこと」より抜粋及び改行編


 私はこうした定義を「ふむふむ、なるほど」と読みながらも、自分の言葉にできるほど芸術をシラナイので、体温がどうちゃらで無機質の迫力がうんちゃらと言うしかない。

 けれど、こんな私であっても、美術・建築・インスタレーションなどあらゆる媒体として芸術たりえる作品を、後世に伝えるための所蔵や展示をして、現在と未来に向けてそれらの作品を伝える試みを成す美術館で、企画や交渉や展示などの運営をしていらっしゃる職員の方々のお仕事は、本当に・ごく僅かな・選ばれし人にしか続けられない、至極尊いものなのだと言う事は分かる。当たり前だが、膨大な知識量や明察も必要であるはずだ。

 芸術は、ほとんどの場合、天気予報の様な時事情報ではないし、毎週放送される人気アニメのようなコンテンツでもないし、スポーツ中継のように瞬間を歓喜する体験でもなく、隙間時間を潰すゲームのような没頭的中毒性をもたらさない。芸術は、そうした「常に目新しさを消費されがちなもの特有の一瞬の輝きや価値」ではなく、「過ぎた時間すら関係しながら時代と共に価値や意味が移ろいゆくもの」みたいなところに所在している気がする。それに、芸術は「ちょっと崇高な雰囲気」も常にある。

 けれど、片や美術館はというと「扉は開いてるから、いつでも入っておいでよ」のような、公共と地続きなオープンスペースやソーシャルスペースの一部である事が多く、芸術そのものが醸し出す崇高な雰囲気との均整がとれているなと思う。

 人生にたった一回しか美術館に訪れない人もいるだろうし、訪れないまま終末を迎える人もいるかもしれないし、わりとよく行く人もいるし、数年ぶりに行く人もいるし、恋人と会う時だけカッコつけて行く人もいるかもしれないのが、美術館に対する私の印象だし、それこそ多様だと思う。特定の規範のもとに多様な受け入れをする環境といえば交通などの生活インフラを思い出すのだが、美術館は生活インフラではないのか?電車はというと、ある場所からある場所へ行けると言う実用性がインフラたらしめているのだろう。すると私に、美術館に備わっている実用性とはなんだろう?または、ないのだろうか?という問いが生まれた。

 美術館は、例え偶発的に訪れた機会だったとしても、その人の思想や人生に影響を与える事ができる場所だと思う。その展示のその作品によって、訪れた人は美しい可愛い恐ろしいなどの感情的な動きを楽しんだり、見知らぬ国の物語を知ったりもする。時には神の啓示や霊感めいたインスピレーションすらもたらされるだろうし、私自身人生の岐路に立ち、考えをまとめなければいけない時、幾度となく美術館の展示の前で過ごしてきたのだ。



 私が、初めて美術に触れたのは、または明確に美術を体験したのは、映画学生時代に訪れたニューヨークのメトロポリタン美術館だった。2005年、演技と演出の勉強のためにニューヨークのActors Studioに類するセッションを短期受講していた際、演技クラスの教室に向かう途中にあったマンハッタンの古書店で、たまたま見かけたアーシル・ゴーキーの画集を買った事が発端だった。

 アーシル・ゴーキーの絵画やデッサンは、色彩と線とオブジェクトが印象的で、本当になんとなく目について手に取った。画集は大きくて分厚く、英語で何を書かれているか詳しくは分からなかったけれど、悲惨な生い立ちを経てニューヨークに来た画家だという事は分かった。そして、これは数年前に見た映画「アララトの聖母(2003)」(監督:アトム・エゴヤン)のモチーフとなった画家だと気がついた。

 それから私は下宿先のWindows XPを使い、マンハッタン近郊にある美術館のアーシル・ゴーキー所蔵を調べる事にした。一連の私の行動は、どれも旅先での冒険心が生み出した浪漫だったと思う。

 その日はもともとMoMAに行く予定だったように記憶している。モダンアートへのミーハー心というかなんというか、ジャクソン・ポロックのOne: Number 31(1950)を見る予定だったはずだ。私が初めてニューヨークに行った時よりも五年前、2000年に公開されていた映画「ポロック 2人だけのアトリエ」(監督・主演:エド・ハリス)で、画家とその妻の物語に心を震わせ、アクションペインティングの大きさや躍動を見てみたかったのだ。

 けれど、MoMAに行く予定はふとしたきっかけで変わった。古書店で買った画集のアーシル・ゴーキーの本物の絵を見る事がその日の目的に変わったからだ。実際に、アーシル・ゴーキーのWater of the Flowery Mill(1944)という絵画に直面した時は、感傷的な気持ちに浸ってしまった。ニューヨーク、マンハッタンの街角、歴史ある古書店と、映画を通じて知った有名画家の画集という浪漫の果てに、ついに本物と対面した興奮が、私と絵の間に特別な親密さを生み出したのかもしれない。 



 2005年当時のメトロポリタン美術館しか知らないが、その時はアーシル・ゴーキーの絵は白く高い天井のある展示空間でゆったり見る事ができた。平日の昼で流石に空いてたため、長い時間をかけて贅沢に眺めて過ごさせてもらった事を覚えている。また、演技を学んでいたあの頃は、心と身体と脳と霊感みたいなあらゆる感性が若いなりの洗練さでもって研ぎ澄まされていたため、昨日まで知らなかった絵画と無学のままに対面した瞬間に鮮烈なインスピレーションがあったような記憶は未だ色濃い。


 

 「自分の仕事は、必要とされにくい」 

 食事会の日、かの友人である夫氏は憂いを含んだようにこう吐露をした。私は美術館で働く事に決して明るくないのだが、かつて学生だった若者が家庭を築き、四十代に入り人生が折り返す気配を感じ始めても尚、いざ話し始めれば二十年前を色濃く思い返せるほどの『記憶』を生み出す特別な空間こそが『美術館』であると体感では知っている。美術館に訪れる人の数だけ、そういう不思議な事が起きているのだろう。美術館は、作品からの感受を得られる場所であり、作品を前に自分自身と二人きりになれる場所でもある。または、共に訪れた人との大切な思い出をつくれる場所であったりもする。美術館での体験は『特別な記憶』を纏い歳月と共に色褪せる事もない。美術館で日々起きているこうした奇跡は、人間が何か(例えば出逢いや人生といった形がある様でないからこそ尊いもの等)を美しいと感じ、そうした何かを我が人生で慈しみたいと思う事の輝きにも等しい。だから、夫氏のような選ばれし人々が続けている仕事も、そのお陰で今日もそこに凛と存在する美術館も、(少なくとも)私の人生や、私が大切に思う家族や友人達が「そういえば、あの展示に行ってみない?」と声を掛け合う『とある一日』には、きっと、否、絶対に必要なのですと夫氏に伝えたいと思った。彼は長らく各地で美術館の運営企画に携わり、国内や海外で学び、かつては同業であった妻氏からみても学芸員として必要なもの全てを備えているという。それを教えてくれた妻氏の口ぶりには、同じ事を言い慣れた人の自然さと本心があったので、これは事実なのだろうと私は思った。そんな夫氏であっても、時に自分がやりたい事や大切にしたい事が仕事と噛み合わず歯痒さもあるようだった。芸術を社会や都市に開いていく館である運営母体から求められる事と、自分の考えとがどこか不一致する事があれば、仕事への情熱に折り合いをつけるのが難しい時もあるのかもしれないな、などと感じた。あの日の食事会に出席していた大人たち全員が、彼のこうした話を聴きながら、自分のオフィスで起きている葛藤や矛盾を想起していたのではないだろうか。背景や領域こそ違えど、社会人として同じように悩める者同士が、ほんの数行に満たない彼の吐露から様々な思いを想起していた様な気がする。多かれ少なかれぶつかる壁はあれど、真っ向から正直にぶつかるような荒削りでピュアな年次では最早なく「まったく、どうしたもんかね」と溜息ついてその壁を見上げながら、「おい早く!この壁をなんとかしろ」とせっつく前方様からの声と、「先輩、この壁をどうすればいいんですか?」と所在無さげに尋ねてくるばかりの後進君達に挟まれた中間ですねと互いに同胞感を感じながら、この話題は幕を閉じた。

 仕事を続けていくと生まれるこうした問いに正解は無さそうだが、友人として過ごし始めたばかりの始まりの会話として、「自分の仕事について」の解釈は有り難い話題だった。優しい人々が肩を寄せ合い、心地良く過ごす為の穏やかな会話がなにより好きだが、その人を知る事ができる『常日頃から頭に所在する本音の一部』をさっと見せてくれた、夫氏の機知が嬉しかったのだと思う。





 友人夫妻の夫氏による食事会のふとした発言で私の脳裏には瞬時に色々と考えが巡った。しかし、それをあの日の談笑と平和の中で言語化し、皆の前で吶々と話すにはあまりに束の間であった。私は団欒でお茶を濁す事はしないという品格は弁えているつもりだ。だからこそ、食事会から二日ほど経ってもなお、あの時の会話に一人で相槌を打ち続けていた。そして私はこうして書く事にした。聡明な友人夫妻であれば、しばしばまどろっこしい私の言葉でもちゃんと聴こえそうなので、ここに書き記したこの文章の在処ですら、いつか彼等に伝えてみようかと思案している。

 私にとって時空を超えた身近なメンターである詩人のポール・ヴァレリーによると、特別な友人関係はこういうものだという。そして私はこれが真理だと思っている。だから、互いがどういう人間かと知って行くために、パズルのピースを少しづつ交換するように、かの友人夫婦との交流がこれからも深められたら嬉しいと思った。

 歳を重ねると春は別ればかりだが、時にこうした明るい出逢いもあるのだなと、この胸の高鳴りをここに記憶しておこう。

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