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親友

更新日:5 日前

ベッドにある本

 数年ほど前、友人との関係において言葉にできないような悩みにかられていた。


 大人になり、人間関係の迷いごとは話せる相手も限られるもので、思い返すとその悩みを誰かに打ち明けることもせず、かといって明瞭な解釈をすることもせずに、ただ長考を続けて過ごしていた気がする。もしかしたら、数年前どころか、子どもの頃からずっと持ち合わせてきた自分では解決できない友人関係の違和感だったような気もする。


 その違和感の濃度が高まっていた数年前は、その悩みに取り組むことにすら疲れていたので、放置したままだった。もやもやとした感情は、定義すると少し楽になるもので、ジョン・キーツが提唱した『ネガティブ・ケイパビリティ(不確実性や矛盾や未知を受け入れ、すぐに結論を出さず、解決策が見つからない状況でも、焦らずに考えを深めながら、新たな視点を用いて時に想像的に物事を捉えていくこと)』という考えを聞いてから少し気が楽になったりもした。


 現代の日本は、「しんどいけど、なんとかなるさ、いつかは」というスタンスでいないと生きた心地がしない。「しんどい、どうにかしなきゃ、いますぐに」というスタンスでいると息苦しくなってしまうような気がしている。白か黒かは選びにくく、自分と環境のために皆んながグレーをまとっているというか。これは必ずしも悪いことではないと思うけれど、生身の人間同士の交感においてグレーを保つためには、感情と人格の一部が弱り醜く腐敗せざるを得ない。この流れは単純な仕組みだと思う。綺麗な水も空気も澱めば腐り異臭を放ち菌が増殖していくから。


 数年前は、友人関係の違和感からくる自分の心の腐敗を他人事のように傍観していたし、悩みの解決なんて諦めていたような状態だったので、敢えてこの問題に着目していたわけでもなかった『ある朝』に、この友人関係の違和感の正体を理解できたので、驚きと共にここに書き留めておく。


 きっかけは娘の風邪だった。季節の変わり目に体調をくずしてしまった幼い娘が高熱を出して寝込んでいる寝室で添い寝をし、片手で背中をさすりながら、過去に書き留めていた文章や格言などの散文をめくっていたところ、フランスの詩人の言葉から以下のような一節を読んだ。




親友


本当の親友になるには、同じ程度のつつしみ深さをもつ者同士でなければならない。それ以外のもの、性格とか教養とか趣味はあまり重要ではない。本当の親しさはお互いの廉恥心と口の堅さのうえになり立っている。だからこそその親しさが、信じられないような自由を許すのであって、この二つ以外のことは何を言ってもいいのである。


平凡社|ヴァレリー・セレクション上

「言わないでおいたこと」より抜粋及び改行編集




 これこそが、私が子ども時代から抱えていたもどかしい違和感を読み解く辞書であり、違和感を拭いきれずに疎遠になることを選んだ友人関係の正体を明かすものだった。全てはこの文章に記されている真理によるものなのだと三十九歳になってようやく気がつくことができたのだ。


 ポール・ヴァレリーという聡明で多彩な詩人は、前述の「言わないでおいたこと」という警句集を1930年までに書き上げ、1945年に亡くなっている。私としては「こういう大切なことは言っておいて欲しかった」と、小さな憤りすら覚える。


 発熱している娘はまだ四歳だが、彼女が幼少期から青年期へと成長するなかで、この詩集だけは必ず手渡そうと思った。彼女は繊細な感受性を育んでいるようだから、きっと違和感に気がつくのも、それを明察するのも早かろう。

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ちーちゃんと白い花

わたしにとっての治療やリハビリは、愛する友人たちとの会話だ。または、彼らと何気なく一緒に過ごすだけでもいい。大人になるにつれて肉親には話せないことは増えていくが、友人たちとは語り合える。そして、彼らがくれる『わたしはこんなにも愛されているのだ』という実感が、やっかいな物事に立ち向かわなければならない時の勇気になるのだ。

 
 
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