僕というAとB
- 22 時間前
- 読了時間: 4分

自己肯定感の話題は昨今よく耳にする。自己肯定できない人は自己肯定感が低いとされ、自己肯定できる人は自己肯定感が高いとされている。
これは省略語で、より理解しようと言葉の原型を見ると「自己を肯定している感覚の度合い」を示しているという。つまり、無条件で己を肯定できるか否かの度合いで人間の心理的安全性を測ることができるともいえる。
「己を肯定できる感覚が高い低い」ということを僕はこれまであまり考えたことがないと思う。
こう言うと大いに誤解されることがあり、「君はきっと生来爽やかな性分なのだろうね、君を見ていたらわかる気がするよ」なんて嫌味っぽいことを言われたりもする。
ひょっとすると、僕は人から見ると自信家の佇まいをしているのだろうか、それとも人生が充実しているように見えるのだろうか。僕がたまに赤色の靴下を履くから、人は僕を自信家だと誤解するのだろうか。それとも僕がいつも白いワイシャツを着ているから、人は僕を爽やかな性格だと思うのだろうか。
僕からしたら、自己肯定感のように局面や時期によって変化しうる流動的で感覚的な自認など青年期の淡い恋ほどに面映く感じるし、むしろ「ボクって自己肯定感が低めなので…」なんて可愛らしい吐露を、目元を赧めながら心を許せる友に言いたいくらいだ。
僕はこれまでの人生の殆どを、得体の知れない「真っ黒の自己嫌悪」と共存して暮らしている。
僕の日常は、その「黒」の透明度が高いか低いかだけが微細な変化なのであって、本質的に「己の事を嫌悪している」という事実自体は覆らない。その「黒」を社会生活や家庭生活で晒さないようにするのが得意になっているだけで、ずっと「僕は黒なんか抱えていないよ」という薄ら笑いを浮かべて浅い呼吸をして暮らしているだけ。僕は己を無条件に肯定できるかどうかの感覚より以前に、僕自身を嫌悪していて、それは覆されるような一過性のものではない。
僕は幽体離脱を経験したことはないし、二重人格でもないし、多重分身もできないし、別次元から来た僕本人と対面したこともない。けれど、僕が想像しうる限り「僕自身を/僕自身という別の自己の視点」から客観視したことがある。或いは、僕の肉体(これを仮にAとする)を僕の幽体(ならばこれをBとする)から眺めてみたような感覚に陥る夢(もしかしたら、アレこそが幽体離脱だったのかも)を見たことがある。それも一回限りではなく何度もそんな夢を見ているし、あげく「今夜はAとBが出てくる夢を見たいな」と考えながら眠りにつけば、ほぼ間違いなくその夢に入れるようにまでなった。それほどまでに、僕は僕への嫌悪感と長い付き合いがあるから、僕自身の執着心が深層心理を映し出す夢を僕に見せるのかも知れない。
Bという僕から見たAという僕は中肉中背で、(なぜか夢のなかで僕はいつも裸だったから見えたけど)全身の薄い皮膚から体内の毛細血管が透けて見えているためかやや赤味がかった白い肌の色をしていた。眉が薄く、まつ毛は長いけれど少なく、口の周りも桃の産毛のような髭があるくらい。爪の形は長方形で手のひらは分厚くて指はやや短め。腕も短め。足は何故か長め。肩からウエストから尻までは平らで真っ直ぐでやっぱり長方形。足の指も短めで足の形も長方形。
Aという僕から感じるBという僕の魂は、そこまで忌み嫌うべきほどの悪人でもなければ嫌悪するほど性根の腐った人間でもなく思えた。多少の欲があり、時には狡いことも考えるようだけど、エスカレーターを駆け上がったり歩いたりしないようにジッと我慢しているようだし、優先席には座らないし、無言で必要最低限の接客をする深夜のコンビニ店員に対しても小声で礼を呟くような、それなりに真っ当な人間のようだった。
だから何度夢を見ても、AにもBにも「僕が呼吸するくらい自然体で自己嫌悪している理由」が解らないようだ。
そして僕自身は、僕の中に僕というAとBを抱えて生きているのに、やっぱり僕にも僕が何故僕を嫌悪しているのか解らなくて困っている。

