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神とケーキ

  • 執筆者の写真: 鳥 いまお
    鳥 いまお
  • 2013年12月25日
  • 読了時間: 2分

更新日:5月8日

食べかけのフルーツケーキ

 顔を揃えて幸せを笑い合えるはずの食卓であっても、それぞれの持ち寄る感情が異なる場合は不穏で気まずい雰囲気が広がってしまう時がある。そんな時が、ある。

 会話の歯車が狂ってしまうのだ。気がつかない程度に少しずつ歯車がずれていって、小さな摩擦を繰り返した末に、歯車から火花が散って、それが火種になって、なんとか火を消したいのにすでに手遅れで、最後には灰色の煙が上がることもある。そんなことは、ある。


 家の外に出れば、誰かにとっての良き友であり、頼れる同僚であり、幼き者に優しく、この世の不条理に心を痛めるような良い人間だろうと、家族ともなれば互いに甘え霰もない自分自身を曝け出してしまう。信頼と愛情が強いほど、喜怒哀楽もオブラートに包まずに伝わる。時に親は子との関係に盲目になり、自分は子から好かれている、自分が子を諭す立場である、自分が子を導かなければならない、そして自分は正しいという態度に凝り固まってしまう。こうしたことは、親の物差しの何倍もの大きさで子に影響する。子は時に、親への畏怖に押しつぶされそうになる。子にとっての親とは、家の中という小さな世界にいる神だから。


 今夜、僕に燃え移った火は鎮火するまでに四時間もかかった。僕は、自分の中に燃え盛る怒りと恐怖という激情を赦すことができず、熱い湯が冷めるほど長い時間湯船に浸かった。湯から出た肩の冷えを感じる頃、ようやく自分ではない相手の感情について考えを巡らし始めた。僕は神が絶大だと信じすぎているのかもしれない、神も更年期障害の影響を受けることもあれば、自律神経が失調することもあるかもしれない。神も疲れ、神も愛する者に甘え、神も迸る感情を身近な弱き者にぶつけたくなるのかもしれない。神も僕から相談して欲しかったかもしれない。僕が一緒に暮らしている神は、本当は少し年上の同じ人間なのかもしれない。今夜も母は神の前で口を閉ざし、姉は目を伏せ、僕は金色に輝くデザートフォークを握りしめながら歯を食いしばっていた。


 僕を苦しめた怒りは理解へと昇華された。聖なる夜に食べたフルーツケーキの味は覚えていない。だが、今夜は悪夢を見なくて済みそうだ。

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