賢
- 鳥 今雄
- 2014年1月11日
- 読了時間: 6分
更新日:5 日前

面白い人の思考や、面白いこと、面白い作品など、あらゆる面白いものでわたしの日々の楽しみは形成されているけれど、ここ最近、そのほとんどに対してかなり受動的な楽しみ方しかしていないことに気がついてしまった。そして残念な気分になって、落ち込んだ。
たとえば読書をして本の中で展開されている物語や思想を楽しんでいても、そこに書かれている内容に対してただ受け手として聞くだけ読むだけになってしまっていて、あくまで受動の状態でわたしの読書は完結してしまっているのだ。何かについて考えるとか、何かについて気になるとか、そういう脳みそをフルにつかった取り組みへの熱心さが以前よりも薄まっていることに気がつき、落ち込んだ。というよりも、少し焦ってすらいる。
わたしの姉はいわゆる高学歴な人で、国内トップの進学女子校を卒業して渡米しアメリカの西海岸にある有名大学に進んだ後に六年後帰国、現在は国内の外資系企業で働いているというキャリアの持ち主なのだが、彼女は「あの人ってすごくおもしろい」と言いたい(であろう)時に「あの人ってすごく賢い」という表現をよく使っている。そこに嫌みっぽさはあまりなく、おそらく彼女の本音だし、最大限の賛辞として『賢い』という表現を使っているようだ。わたしは姉がこの賞賛の言葉を使うたびに、妙にソワソワと気になって仕方がない。どうも、あまり脳みそを使っていなかった近頃の自分が、このソワソワには関係しているみたいだ。
わたしは学校の勉強が得意ではなかった。学生時代の全てにおいて、これといって突出して頭が良かったこともない。地元の公立中学を卒業し、中間層くらいの偏差値の高校に通い、大学受験をすることもなく映像表現の専門学校に通い、卒業後の数年間は映像制作会社などで右往左往しながらも働いたが挫折し、結局二十代の後半はフリーターに近い生活をしてきた。その間、わたしは一度も『賢さ』によって成せるような達成を経験したこともなければ、周囲の賢い人が持つ優れた思考力に感銘を受けることもなかった。『賢さを感じる為に必要な賢さ』すら、わたしは持ち合わせていなかったのだと思う。
こういうことを書いていると、「学校の勉強で測る『学力』がないというけど、それと『賢さの度合い』は必ずしも比例していないよ」などと言われてしまうかもしれないが、一方でこれらは反比例しているわけでもないと思う。EQと違って、IQは遺伝的要素が大きいらしい。親のIQが高ければ、子にもそれが遺伝するということだ。わたしの家計は代々高学歴が多いのだが、なぜか私にはそれが遺伝しなかった。遺伝子というのも博打みたいなもんだと思う。姉は大博打に当たり、わたしは外れたわけだ。姉を見ていても思うことだが、学力が高い人は『考える力』が逞しい。高い学力をもつ人の形成基盤において、日本社会の受験制度を乗り越え勝利してきたという実績で測ることができるのは、納得する。姉のような人たちは、考える為に必要な『使える脳みそ』を幼い頃から鍛え上げてきた経験を持ち、「年号を覚えるには、どうすれば良いだろうか?」や「簡単な数式を応用して高度な問題を解けないものかだろうか?」のような、問題解決へのアティチュードを自分で形成していく過程でこそ得られる知力が、学力で指し示すよりも遥かに重要な彼らの最大の強みなのではないかと思うのだ。
受験勉強は、十代における絶好の知力向上ブートキャンプであることは間違いなく、そういう点で、わたしは十代の頃に少々サボってきた組なので、知力は脆弱で基盤も緩く『使える脳みそ』とは程遠い。社会に出てからそのことに気がついたわたしは、遅まきながら読書や内省によってこれまでのツケ返し始めてはいるけれど、思考することの反復練習を十代で鍛えてこなかったために、一度でも考えることをサボると、地力の基盤が緩いため、考え抜くことを諦めてしまいがちだ。そして、こんな自分のハリボテ感に嫌気がさしている。三十歳を目前にして、『考える力』がこれからの人生における充実感や濃度を左右するような気がして不安でならない。
昨年まで、職場で受けるパワーハラスメントやモラルハラスメントに悩んだ時期があった。あの頃は「常に考えすぎてしまい、夜も覚醒して眠れない」という状態が続いていたため、悩みや不安も多く、きつい時期だった。考えすぎると良くないとわかっていたが、悩みに付き纏われていて、常に考え込んでしまっていたと思う。しかし、ある時、『悩み』や『不安』の内容物を分解してみると、そこには多分の『感情』が混入されているとわかった。
わたしを含め、悩みがちな人ほど、思考と感情の線引きが下手だなと最近よく思う。少々ドライになっても良いことでも感情が邪魔をして妙な逃げ道をつくるものだから、思考と感情のメビウスの輪が完成し、抜け出せなくなってしまうのだ。悩み続ける悪い習慣を持っている人の多くは、「わたしにも悪い所があるし」といった類いの謙虚さを持っている美徳があると思う。けれど、最初は素直なはずの謙虚さが、いつしか転じて臆病さや自己否定にまで発展し、そのまま悩み続け、最後には多くの人が自分を自分で追い込み、精神病になるのだと思う。
わたしを取り巻く環境やわたし自身の性分がそれを呼び込んだのだろうが、わたしは『過剰で歪な人間関係のなかでうまく立ち回る』という試練に直面する機会が多かった。だから、人間関係で悩むこともしばしばあった。反復で得られるものもあるようで、悩みの数だけ『悩むこと』に対する免疫力がついてきたように思う。だから、パワーハラスメントを受けていた時も辛かったけれど、わたしは精神病にはならなくてすんだ。『悩み=感情+思考』だから、『感情』か『思考』を減らせば『悩み』にはならない、という公式を当てはめて、シンプルに解釈するように努めている。問題を解くためには公式が必要で回答には根拠が必要だが、ドライでロジカルに取り組めば、原因不明の不安に振り回される頻度も少なくなるはずだと信じている。
一方で、賢い人でも精神病になるし、賢さが仇になって人間関係が破綻している人も知っている。だから、賢い人が一番すごい・バンザイ・完璧・最高・愛してる!ということを言いたい訳ではないのだけれど、考えるという行為や、考えたことを言語化したり定義することで処理手続をはっきりと定めることは、これからの自分の思考力を磨いていく為に重要なのだと思う。
そもそも、大切な時間を使って自分自身が後に読み返すためだけにここでエッセイを書いている稀有な人間なので、執筆というお金のかからない趣味によって、いずれ文章が上達すれば一石二鳥ではないかとも思う。
The limits of my language means the limits of my world.
Ludwig Wittgenstein
わたしの言語の限界がわたしの世界の限界を意味する
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン